パリの恋人 冒頭で諦めた

パリの恋人 [Blu-ray]

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 ミュージカルを色々見ている。パリの恋人の導入がめちゃくちゃ納得行かなかったので、最後まで観ることができなかった。無理。パリに移動したところで見るの止めた。序盤も序盤だが。ファッション誌の強引なオバサンというキャラクターはまだ物語のための愚か者ということで飲み込んだんだけど、オードリー・ヘップバーンが全然かっこよくないオジサンにキスされて急に心変わりするあたりでご都合が過ぎてだめ。気持ち悪さすらある。そんで気持ち悪い勘違いおじさんと現像室で踊りだしてパリ行き決めて…。全部オードリー・ヘップバーンの気持ちを適当に忘れて進めていくのが嫌すぎる。オードリー・ヘップバーンめちゃくちゃ可愛いし、それだけでも見る価値あると思ったのに、やっぱりダメだった。共感できるところ全く無いし、怒りすら感じる。本屋めちゃくちゃにされたインテリなのに、キス一撃で恋に落ちるとか脚本バカすぎでは?時代の問題?1957年の映画。そんなに女の人がチョロい時代なの?気持ち悪いおじさんにキスされて?そこはビンタだろ。

出雲星系の兵站2

星系出雲の兵站 2 (ハヤカワ文庫JA)

星系出雲の兵站 2 (ハヤカワ文庫JA)

 続く2巻を読む。第1巻では未知の生命体ガイナスに挑んだ人類が辛勝して英雄を作った話(←ざっくり)だったけれど、今回はガイナスを舐めてかかったらボコボコにされる。無能な上官、油断、モブがどんどん死んで敗走。残された人々を独立して動いていた人々が救って英雄となる、てな話。大筋は面白いんだけど、ミリタリー要素にあんまり興味がないので、戦艦とか兵装の詳細とかだいぶナナメ読み…。1巻を読んだときの感想とほとんど同じだなぁ…。単に向いてないのだと思う。3巻が発売されているようだけど保留。

 次のSFはハイペリオンを読んでる。まだまだ初めの方なのだけど、独自用語の多いこと多いこと…。それが作品の雰囲気を作る要素なのだと思うけど、ちょっと苦労している。話自体は面白く読んでるのだけど。

自分を操る超集中力

自分を操る超集中力

自分を操る超集中力

 年末年始に実家に帰ったときに友達と飲む。恒例。その待ち合わせで本屋に寄って立ち読みしたら、なんか「おっ」と思うような内容だったので後日買う。いわゆる自己啓発本の類。たいてい章タイトルだけどんどん読んできゃなんとなくざっくり分かるから買わないんだけどね、自己啓発本YouTubeみてると時々現れるDaiGoさんの動画を見てたらなるほどなーと思うことがあったりして、そのDaiGoさんの本ならいいかって。権威に弱い。権威?

 ウィルパワーなる集中力の源を、いかにコントロールするかという本。ウィルパワーはあらゆる選択をする際に使われていくそうな。なので机の上とかをきれいにしとくと、仕事に集中できるんだよ、とか。習慣にするとウィルパワーの消費を節約できるよ、とか。スティーブ・ジョブズではないが、着る服が決まってると、そこで節約したウィルパワーを他の作業に振り分けられるのだ。腑に落ちるなぁ…。メンタリズムにかかっているのだろうか。

 それはさておき、なかなかやる気スイッチの入る本であった。これから光目覚まし時計で早めに起きて朝日を浴びてセロトニンを作り、軽い運動のあと出かけるまでに勉強したりインプットを作って、ポモドーロ・テクニックとアイビー・リーメソッドで効率的に仕事を進めたい。…とりあえずこの本に出てくることをズラズラ並べただけだが。そんなにスパッとは行かないので、やれるところから小さくやってみよ。たまーに自己啓発本読むの楽しいかも。内容を実行できるかどうかはともかくとして、なんか仕事する気でるよね。ただその意識高い感じを周りに影響させちゃうと勘違い者なので気をつけるべ。


 さて違う話なのだけど、選択&決定によってウィルパワーを消費するという話。それを節約することによって、本当に創造性が必要な作業に力を注ぐことができる。ここで良いことを思いついたんだけど、人間の細々とした選択をAIに管理させよう。自由意志こそが人間の人間たる理由、みたいなプライドを持ってる人は多いが、なんでもかんでも自由意志によって選択する必要はないんだ。計算で最適化できるような選択についてはAIに一切を任せることで、人間はエネルギーを温存することになり、そのエネルギーでより高度な創造をする事になるだろう。豊かな社会を作ろう。現代はまだその効果について懐疑的なので「AIが人間を支配してしまうのでは?」みたいな謎の恐怖によって選択をAIに任せることに不安があると思う。しかし、これがうまく機能すれば、逆に「まだそんな些細なこと自分でやってるの?」みたいな価値観に大逆転するかもしれない。

 先日NHKで放送された「平成ネット史(仮)」で堀江さんが「iPhoneにフォン(電話)って名前を入れたジョブズ天才」というような内容のことを言ってた。『PDA』とか技術先行の人はカッコいい感じで名前つけちゃうけど、それが普通の人を敬遠しているのだと。AIも名前を変えよう。既存の仕組みと組み合わせよう。センスの良い名前思いつかない。

ヘアスプレー

ヘアスプレー [Blu-ray]

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 年始休みの最後に映画を観る。今年はもうちょっと映画を観たい。

 母親役の大柄で太めの女性をジョン・トラボルタが演じているというのがすげぇ話だ。そんなキャスティングある?すごいな。なぜ実際の女性でなくわざわざ特殊メイクのジョン・トラボルタであったのだろうか。…と思ったら、このリメイク元になっている元々の映画からエドナ役は男性だった模様。そのポリシーが引き継がれて、ということか。え、そしたらどうして元の映画は男性だったのさ…。大柄&豊満な女性役者が当時見つからなかったとかそういう話かな…。理由をググってみたいのだがすぐには見つからない。男性が演じることで男性同士の恋人関係、ゲイ、そしてLGBTにたいする差別すらも払拭したい、みたいな考察も見つけた。しかし結構メイクががっちりしてて、ちゃんと女性に見えてしまったけどなぁ…。不思議。

 差別を無くすことも、性別や体型なんか気にせず自分のやりたいことをしよう、行きたいように生きよう。確かにそうなんだけど、それを受け入れられないことも含めた多様性を認めて、自由に生きることができるだろうか。自分の権利を主張し、それが受け入れられない世の中を批判する、それは自由だ。だが、世の中だって自由意志の塊であるから、その思想を拒否することもまた権利。多様性の難しいところである。善悪の境界線があるとすればそれはどこなのだろう。ヘイトスピーチ表現の自由とするかって判断に似ている。ちょっと例が低俗すぎるか。でも怒りや憎しみの表明だって権利だよね。肥満もそう。肥満のトレイシーはいつもニコニコしていて前向きで幸せそうだ。おそらくその母親譲りの体型によって小さな頃から様々な嫌な思いもあったであろう。実際に劇中でもそういう描写はある。ただそれにめげない。自分が美しいと思うものを信じる気持ち。そういうのが大事なんだ。それに共感する人もいるだろう。共感できずに離れていく人もいるだろう。んーでも、その信念が社会とうまく噛み合わない人はどうすれば良いのだろう?信念があることは重要なことだが、それが周りと噛み合わなければそれは「ひとりよがり」「自分勝手」という存在になってしまうではないか。また信念を貫くことによって自分が不幸になってしまったら?劇中のトレイシーはリンクと結ばれたが、「僕は肥満の子はどうしてもダメ」っていうリンクだったらどうなのだろう。トレイシーは「まぁそういう人もいるか。リンクのことは諦めて、自分のこと好きな人探したろ!」って切り替えていくのかな。トレイシーの父が確かにそういう存在の証明となっているのだけど、逆にいえばその為の装置とも言える役なのでは…。マイノリティの戦いの難しいところだ。答えの無いことを悶々と考えながら本作を観終える。楽しかった。

戦争交響曲 音楽家たちの第二次世界大戦

 サブタイトルにもある通り、音楽家に着目して第二次世界大戦を追う。音楽家といっても、ドイツを中心的に描くため、特にフルトヴェングラーワルタートスカニーニカラヤンに焦点を置いた描かれ方となっている。ドイツ、すなわちヒトラー反ユダヤ主義に巻きまれた人々とも言える。特にこの4人はドイツに残ったフルトヴェングラーカラヤン、ドイツを離れたワルタートスカニーニ。ドイツ組はいかにナチスの広告塔として利用されてきたか、そしてドイツを離れた二人がどのようにナチスの思想と戦ったかが語られる。

 主には上記の4人の話であるけれど、終戦直前のルービンシュタインの話が感動した。

 4月25日、日本との戦争はまだ続いていたが、ドイツ降伏は時間の問題となっており、連合国は「国際機構に関する連合国会議」をサンフランシスコで開いた。
 戦後処理と国連設立が話し合われるこの会議には、50カ国が参加していたが、ポーランドからは誰も参加していなかった。ポーランドには、ロンドンにある亡命政権と、国内にあるソ連が支援していた政権と、「二つの政府」があり、どちらが正当な代表であるかもめていて、代表を送れなかったのだ。
 偶然にもこの会議の開催中に、ルービンシュタインはサンフランシスコで演奏会を開くことになっていた。コンサート会場には会議に出席している各国代表も来て、各国の国旗も並んでいた。
 ルービンシュタインは舞台へ向かう直前に、ポーランドはどちらの政府が本当の政府になるか分からないので代表が来ていないことと、会場にポーランド国旗がないことを知った。彼は胸の動悸が高まるのを感じながら、ステージに出た。まずは《星条旗よ永遠なれ》だ。客席の全員が直立不動で聴いた。それが終わると、次はショパンのつもりだった。しかしルービンシュタインは自分でも制御できなくなっていた。彼は立ち上がり、言った。
「より良き世界の創造のために偉大な国々が集まったこのホールに、ポーランドの旗がありません。この国のために残酷の戦いがあったというのに」
 そしてより大声で叫んだ。
ポーランド国歌を弾きます!」
 それはかつてナポレオン軍に向かって戦ったポーランド軍が作った国家だった。会場の人々は唖然としながら聞いていた。すさまじい音量でルービンシュタインは弾いた。ホール中に最後のフレーズがフォルテで繰り返された。聴衆は立ち上がり、大喝采ポーランドのピアニストに贈った。興奮を鎮めるのに数分が必要だった。ルービンシュタインショパンソナタを弾くと聴衆に言って、音楽を始めた。
 ルービンシュタインにとっての戦争はこうして終わった 。

 ドイツが敗戦に向かい、ナチスの影響がどんどん弱くなりにつれ、それまで抑圧されていた人々が動き出していく様子がとても感動的。現実のことであるのに、ドラマのようなカタルシスを感じる。しかし現実のことであるというのが何より恐ろしい話だ。キナ臭い2019年。例えば米中のおいて科学技術は、本書で語られたような音楽と同じような動きをしているのではないか…。

空気の停滞

 年が明けて恒例の駅伝を観る毎日。ニューイヤー駅伝からの箱根駅伝。これは鉄板。それが終わると本を読む時間がスタートする。正月のテレビはつまんないよ。あれ、正月以外は面白いんだっけか…。そうだな、正月以外もテレビつまんなかったわ。すべての時間でドキュメンタリーか、歴史ものか、タモリさんが出てる番組やってればなぁ…。ずっと見てられるのに。

 大晦日恒例の朝生を見てたんだけど、想像以上にひどい老人ばかりで日本の行く末が不安である。議論が発散しすぎるし、隙があれば自分の話をしようとするし。やめよう。自分の得意な話ばっかりするのやめよう。あと野党政治家がすぐ政権批判するのもやめろ。それしか能が無い馬鹿に見える。三浦瑠麗にビジョンを提示しろって言われて結局何もできなかったじゃねえか。ああいう議論の番組に野党政治家を複数入れるのやめろ。老人ばかりなのもだめだ。過去の経緯とか失敗の話とかばっかりするのもやめろ。そこから学ぼうとしてる話なのかもしれないけど、結局その話が責任を押し付ける話にすり替わる。できない理由を延々積み上げるのもやめろ。実現するために必要な提案をしろ。落合陽一が指摘する「空気の停滞」をデモンストレーションようだ、と本人が感じてる。視聴者も感じてるよ!


朝まで生テレビ! 元旦スペシャル 2018年12月31日

 老人たちは現状の分析は得意なのかもしれない。過去の蓄積があるからね。でもなぜかその蓄積を未来を変える為の力に変えようとしないというところに老人たるエネルギーの無さを感じる。何かを動かそうとする姿勢、何かを変えてくれるかもしれないという期待、そういうのが人望を集めることに何故気づかないのか。ちなみに政権を打倒しようとする動きは何かを変える姿勢にはみえねーからな。ただ足を引っ張って現状を停滞させる邪魔者にしか見えません。

 ちなみに次の日の夜にみた「ニッポンのジレンマ」という番組では、最後の古市憲寿がまとめていたように、未来の話がされていて好印象。誰かが喋ってるときに無理やりその順番を奪ったりしないし。コメンテーターが若い人たちばかりだとこうなる。対照的な結果。まぁひとりだけ、精神論で具体性がいまいち欠けること言ってて、ダメな意識高い系かなとも思ったけど…。

 世の中が豊かになってほしいのだ。前向きに社会を変えようとするエネルギーに溢れてほしいのだ。その行動が正解でないにしても、その姿勢や行動によって世の中を豊かにしようとする意思が溢れてほしいのだ。そういう社会になってほしいし、そして自分もそのエネルギーの一端となるように生きていきたいのだ。自分には政治とか、世の中を刷新するような研究とかそういうの無いけど、仕事をしてその結果が社会の歯車として組み込まれている以上、その行動は無関係では無い。誰しもそうなのだと思う。停滞した空気を動かすのは、ひとりひとりの意思だろう。きっと老人にはできない。老人にはそのエネルギーが無いからだ。やがて我々もそうなる。現在は老人の多い社会であるから、空気を動かすことのできない人々が多いだけのこと。若者もそのガッチリ固まった空気の中で動きにくい。しかし動かねばならない。世の中を豊かにしたいのだ。

 …と、年始の決意みたいな感じで締め。今年もよろしくお願い致します。頑張ります。

星系出雲の兵站1

星系出雲の兵站 1 (ハヤカワ文庫JA)

星系出雲の兵站 1 (ハヤカワ文庫JA)

 SFは定期的に読みたいジャンルのひとつ。想像力に対するインプット。しかし設定が凝りすぎてて、想像が追いつかなくて諦めたこともある…。本作はそういう意味では設定が細々説明されてて若干の読みにくさがあるものの、わからないレベルではないので、なんとか読了。政治的駆け引きとか、軍事的駆け引きとかの細々とした描写を楽しく読むべきなのかもしれないが、そこがなんとなくピンと来ない。個人的にSFに求めてるのは、まだ存在しない科学技術と、それによる人類への影響とか、その中でどのように人間が行動するであろうか、というドラマなのだと思った。確かに政治&軍事も、超科学の中でどのように人が思考するのかという話なんだけど…。うーん、まぁあんまりそこに興味がなかっただけかな。それより未知の宇宙人という存在が、現段階ではそれほど活躍してないので、そこがちょっと不満。次巻以降に動きがあるだろうか。宇宙人が現れたことによる人類側の動きの描写は面白いのだけど、いつの間にか人間同士の政治的綱引きの話になる。それが不満。ゾンビものがいつの間にか人間同士の戦いの話になってるような現象。そうじゃない、みたいのはそれじゃない。ウォーキング・デッドはそれで観るのやめた。その後どうなっているだろうか。

 それはともかくとして全体として面白くなかったかと言えば、そんなことは無いので2巻がすでに手元にある。1巻で様々な前提は語られたと思うので、これをどのように動かし、結びつけていくかが楽しみだ。