市民ケーン

市民ケーン [Blu-ray]

市民ケーン [Blu-ray]

 何かと1番になる市民ケーン。ランキングに弱い。あと古典に弱い。ランキングに乗っている古典はとにかくすげぇに違いない。というわけで見る。なんか意識高い市民が自由と平等を求めて権力者と戦う映画なんだろうなって思ってたけど違った。その逆だった。うっかり金と権力が転がり込んできたケーンアメリカンドリームな話だった。そして世間的な成功とは別に、個人的な幸せみたいなものは得られずに寂しいなって言う。


 権力や金を持っているものが、持たざる物に富を分配するのは重要だと思う。んで、危険なのが劇中で示されていた通り、「感謝しやがれ」という態度になることだ。優しいとか慈悲があるとか、そういう善なる態度がいつのまにか傲慢さと入れ替わるのだ。一方で「やらない善より、やる偽善」という言葉もある。売名行為や、優越感、自己満足を得るための慈善行為。しかしそれによって救われる人々もいる。ならば理由はどうあれ「やる偽善」行為に価値があるという。結局受け取り手の感じ方の問題か。そうなのだ。これは受け取り側のさじ加減で行為の意味合いが変わるのだ。劇中で大統領の姪との関係が悪くなったのは、単にコミュニケーション不足とか、仕事と私どっちが大事なの!的問題かと思ったけど、歌手の方は仮に彼女がオペラ歌手を目指すことが本当の望みであれば良かったのよね。そういえば、オペラ歌手になるのは母の希望だとか言ってたよな、あのこ。なんでそれを本人の希望だという話にすり替えたのか。時代だろうか。両親の願いを叶える娘こそが最上だという理解だったのかな。そういえばあの子の母出てきたっけ。母が喜んでいる描写とかなかったけど。既に亡くなってるって設定なのかな?その辺覚えてない。話を戻そう。善意の授受の話。この物語では、パワーのあるケーンの善意が実は傲慢に変わっていき、善意の受け取り手はやがてケーンの元を去っていく、という構造になってる。それがアメリカンドリームの闇の部分だ、力あるものが陥る過ちだ、という事が語られているように思う。でもちょっとケーンの側にも立ちたい。善意の受け取り手は、それが常態化することによって、そのありがたみを忘れているのではないだろうか?そして自らの弱さを武器にして、さらなる善意を求める。卑しい態度だ。権力者の傲慢と、弱者の卑しさ。表裏一体。


 面白かったし、なかなかに含蓄があると思ったけど、映画ランキング1位的な感じはしない…。しないのは多分アメリカ人じゃないから。町山さんの市民ケーン紹介動画があったので貼り付ける。


町山智浩の映画塾!「市民ケーン」<予習編>【WOWOW】#186


町山智浩の映画塾!「市民ケーン」<復習編>【WOWOW】#186

 予習編の方でこの映画がいかに当時の革新的撮影技法をとりいれて撮られているか!ってものすごく熱が入ってるけど、現代の単なる視聴者にはあんまり伝わんないかなか…。あと映画好きといっても、撮影方法とか気にして観てる人がどれだけいるか…。確かに市民ケーンが産んだ様々な仕組みは指摘されれば、そうなんだ、すごいやって思うけど、それが当たり前になった現代の映像を見慣れていると、新鮮味が無いのは当然のこと。「これが初期のiPhoneなんですよ!!!!」って必死にiPhone3Gを高校生に見せても「へぇそうなんですか…そんで?」ってなりそう。妄想だけど。そうやって技術は普遍化していくのだろう。ただその道の始祖を再確認するというのは、温故知新という言葉が示す通り、時として新しい発想に結びつく。市民ケーンはそうやって現代にも評価される強度を得ているのだと思う。そうか、その道の始祖になるとその後の歴史で繰り返し紐解かれる。音楽もそうだ。最初に始めた人がとにかく強い。プログレキング・クリムゾンはいつまで経っても廃れないけど、そのフォロワーたちはその活躍している時代でパッと花咲いて散っていくではないか。その人々にしても次の変革につながる人々なのだとは思うけど。

f:id:w5cg2:20190505031225j:plain