最近の車中読書

 青空文庫にこんなに読めるデータが転がっているとは思わなかった。文章は紙で読むモンだ、という強い思い込みがあったので、これまで真面目に見てこなかったけれど、いざ読もうとすると膨大なデータが揃っているねぇ…。これをどこかの誰かが、一切自分の利益と関係無く無償で、しかも読まれるかも分からないのに膨大な時間を費やして作成しているのかと思うと、人の想いを感じずには居られない。

 夏目漱石太宰治芥川龍之介等々有名どころはそれぞれ数百本以上あるし、夢野久作ドグラ・マグラなんつー正気でない作品まで揃っているのには驚いた。個人的には与謝野晶子版の源氏物語が揃っているのには感動した。

 そんなわけでここ最近読んだ作品。

太宰治眉山

 去年そんな映画があった気がする。さだまさし原作の。それとは別に全然関係無いのだけど、タイトルが目についたので読む。若松屋という飲食店で働く眉山というあだ名の女中について描いた作品。その性格が災いして主人公らに疎んじられるけれど、居なくなって初めて気付く彼女の優しさ、良さがあったね、というお話。決してテーマ自体には目新しさは無いが、流石太宰治、と言うべきかぐいぐい読ませるリズムがある。短いけれど、良いものに触れた様な気がする名作。

宮沢賢治銀河鉄道の夜

「ああ、そうだ。皆がそう考える。けれども一緒に行けない。そして皆がカムパネルラだ。お前が会うどんな人でも、皆何べんもお前と一緒に苹果(りんご)を食べたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりお前はさっき考えたように、あらゆる人の一番の幸福を探し、皆と一緒に早くそこに行くがいい、そこでばかりお前は本当にカムパネルラといつまでも一緒に行けるのだ」
「ああ僕はきっとそうします。僕はどうしてそれを求めたらいいでしょう」
「ああ私もそれを求ている。お前はお前の切符をしっかり持っておいで。そして一心に勉強しなけぁいけない。お前は化学を習ったろう、水は酸素と水素から出来ているという事を知っている。今は誰だってそれを疑やしない。実験してみると本当にそうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩で出来ていると言ったり、水銀と硫黄で出来ていると言ったり色々議論したのだ。皆がめいめい自分の神さまが本当の神さまだと言うだろう、けれどもお互い他の神さまを信ずる人たちのした事でも涙がこぼれるだろう。それから僕たちの心が善いとか悪いとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれども、もしお前が本当に勉強して実験でちゃんと本当の考えと、嘘の考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえ決まれば、もう信仰も化学と同じようになる。けれども、ね、ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくご覧、紀元前二千二百年の事で無いよ、紀元前二千二百年の頃に皆が考えていた地理と歴史と言うものが書いてある。だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年頃には大抵本当だ。探すと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考え出してご覧、そら、それは次の頁だよ。紀元前一千年。大分、地理も歴史も変わってるだろう。この時にはこうなのだ。変な顔をしてはいけない。僕たちは僕たちの体だって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらご覧、僕と一緒に少し心持ちを静かにしてご覧。いいか」
その人は指を一本あげて静かにそれを下ろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、皆一緒にぽかっと光って、しいんと無くなって、ぽかっと灯ってまた無くなって、そしてその一つがぽかっと灯ると、あらゆる広い世界ががらんと開け、あらゆる歴史が備わり、すっと消えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、間もなくすっかりもとの通りになりました。

個人的に良いなぁと思った所を抜粋して漢字に直せるところは直してしまいました(そのままだと読みにくかったので…)。宮沢賢治の科学と宗教に対する考えが読み取れる。「お前はお前の切符をしっかり持っておいで」というのもちょっと格好いい。ベタな言い方だけど。

太宰治人間失格

 中学校の頃に読んでワケが分からない、なんか暗い作品だなという印象しか残っていなかったので再読。この作品が書かれたのが1948年の事であるけれども、なんと現代的なテーマだろうと思った。逆に言えばこういうタイプの人間はこの頃からいたと言うことであると思うけれど、その事がますます加速しているのが今なのかもしれない。特に下の引用部分は世間という道徳観の消失、強い個人主義を感じる。

世間。どうやら自分にも、それがぼんやりわかりかけて来たような気がしていました。個人と個人の争いで、しかも、その場の争いで、しかも、その場で勝てばいいのだ、人間は決して人間に服従しない、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ、大義名分らしいものを称(とな)えていながら、努力の目標は必ず個人、個人を乗り越えてまた個人、世間の難解は、個人の難解、大洋(オーシャン)は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放せられて、以前ほど、あれこれと際限の無い心遣いする事なく、謂わば差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく振舞う事を覚えて来たのです。

発表当時は一体この考えは世の中にどのように受け止められたのだろうか。「世間とは実は個人の事である」。なんか目が覚める。

小林多喜二蟹工船

 昨年特に政治的な問題に絡めて取り上げられた作品。未読だったのでこの機会に。表現がいちいち生々しくて、文字を追うだけで痛みを感じる。思わずゲッと眉をしかめる、そんな生っぽい感覚。こういう人を人とも思わぬ残虐労働の上に、経済発展があったのかなぁ、その屍の上に今我々は生きていて、贅沢な時間を浪費しているのだなぁ…。資本主義社会の残酷な一面。小林多喜二はこの作品で当時の警察に要注意人物としてマークされ始めたらしい。

さて次は何読もうか。