地下室の手記 - 凄いタイミングで手にとってしまったかもしれない

 図書館で借りた光文社古典新訳文庫地下室の手記を読み終えた。何の意図もなく読み始めたのだが、昨今の状況を鋭く示すような記述が多くて、文章は陰鬱な雰囲気なのにおもわず興奮してしまう。

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

まずは主人公の特徴をよく示す、訳者あとがきから

自意識過剰で猜疑心が強く、嫉妬深くて気も弱いくせにプライドだけは人一倍強く、人とつき合うにしても、相手を愛することはできずただ独占欲が強くて暴君のように振舞うだけという、どこから見ても人好きのしないまぎれもないアンチヒーロー

この描写、非常に現代人の特徴をうまく表している。もっと言うと先日の秋葉原通り魔事件の犯人の伝え聞いた特徴に非常に酷似しているような…。阿Q正伝に見られる「精神勝利法」にも似たこの特徴だが、しかし地下室の住人は心のどこかで自分が劣っていることを強く意識している。阿Qのように突き抜けられない、ある意味で普通の弱者が、その心情を告白出来る友人も家族もなく、どんどん深みにハマっていく。

 彼をここまで泥まみれにしたのは何だったのだろう。ひとつは貧困などによる社会的格差の問題。裕福な友人を嫉み、その友人を誉めそやす友人を憎み、そして金の無い自分をもおそらく憎んでいる。どこにも根源を求めるわけでもない、どこにぶつけて良いか分からない嫌悪感が、妄想を逞しくする。次に地下室の住人が集団の中では賢い部類であったこと、もしくはそうであると勘違いしてしまったこと。学業は主席を取るほどなので、出来たのは間違いない。それが選民意識を増長させてしまったのか。この主人公のように、思考を暴走させるタイプはそれを生み出す思考の下地が無ければ発生するハズは無い。これは実際の犯罪者にも見られる例で、旧帝大の出身だったり、クラスではおとなしいとか学業優秀なタイプはある日妄想を爆発させて取り返しの付かない事件を引き起こす。少なくとも異性や金で揉めて犯罪を起こすタイプとは全く違う。そんな彼らに共通することは、友人や家族関係の希薄さ…そんな気がする。本書の中で語られることは全く無いが、主人公の家庭環境はいったいどんなものだったのだろう?人間形成には社会的要素も重要であるが、最初のお手本となる親兄弟などの家庭はさらに重要だ。おそらくそういう意味では不幸な環境であったのだろう。

連中が跪いて、俺に友情を懇願することなど、決してないだろう。そんなことは、幻想だ。低劣な、嫌らしい、ロマンチストの、まったくありえない幻想だ。コモ湖畔の舞踏会と同じじゃないか。だから、俺はズヴェルコフに平手打ちを喰らわさなければならないのだ!それは、俺の義務だ。これでもう決まりだ。俺は、奴に平手打ちを喰らわせるために疾走してゆくんだ

第II部5章より引用。屈辱的な仕打ちを受けた(そしてそれは強い被害意識によって加速されている)主人公は、ついに感情を爆発させてぼた雪の中馬車を走らせる。ナイフを懐に秋葉原へトラックを走らせる彼の感情を彷彿させるものではないだろうか?

 自己矛盾だらけで思考が堂々巡り、自意識が強すぎるバカな奴だと言って一蹴することも出来ないなくは無い…が状況はどうやらそんなに単純ではなさそうだ。ドストエフスキーに現代を解体される感覚。すげー100年も前の作品なのに。