能を初観劇

 先日世田谷パブリックシアターで能を観る。野村萬斎の芝居が好きで、ぴあにアーティスト登録していたのだけれど、その繋がりでメールが飛んできたのでチケットを取ってみた。最近日本の伝統芸能というものをキチンと見てみようという事を考えている。歌舞伎、能、狂言、落語…等々、小学校だか中学校だかの音楽の時間で触れて依頼、自分には関係無いものとしてつき合ってきた…。が、自分の住む日本の伝統芸能を脇に置いて、果たしてそれで良いのか?日本人を理解する、社会を読み解く上で、自国の古典芸能は重要な材料となり得るのではないか…。

 …ま、そんな難しい話ではなくて、単純に野村萬斎が好きなんですよ。最初に言ったけど。以前蜷川演出のリア王に出演している野村萬斎を見て、狂言の役者とシェークスピアの相性の良さに驚いた。そして野村萬斎と現代劇という組み合わせの新しさ、面白さ。是非野村萬斎の本領である古典芸能(狂言)を見たいと思った…まぁ観たのは能なんだけど。

 「能楽現在形」という本来の伝統的な能では無く「現在形」という形での、能楽堂を飛び出してみるという実験的な舞台。終了後のキャストトークでもテーマになっていたが、能楽堂に比べて暗く狭く…というこの舞台をどう使うがポイントになったという。さらに黒いリノリウムで覆われた舞台は、「上下左右が失われるような感覚」という不思議な空間。また、古典芸能においては観客が見上げることが普通であるのに対し、世田谷パブリックシアターは2階席、3階席のある「観客が見下ろす舞台」。当然演者も勝手が違ってくる。以前野村萬斎の本を読んだときに(狂言サイボーグだったかな…)、狂言では飛ぶ時に下に跳躍する感覚なのだ、という話を読んだような気がする。「見上げる観客」を対象にする古典芸能ならではの発想だ。西洋の劇場、またはそこで演じられるバレエなどを考えればすぐ分かるが、基本的には上にアピールするのが基本様式だ。(とは言え、この差をどのように捉えてあの演目があの舞台で成り立っているかは、比較対象となる能楽堂での舞台を鑑賞したことが無いのでハッキリしない。)

 さて先日の演目は「融(とおる)」と「舎利」。きっといきなり観ても何言ってるかチンプンカンプンだろう…と思って物語の予習をしておいたのは正解。お陰で流れが分かるので、台詞も聞きやすくなった。最初の演目、融ではシテ(源融の霊)が月をバックに登場。大スクリーンに月を映して…という表現も、現在形ならではだろう。幻想的な雰囲気な登場シーン。まず感じたのはその立ち居振る舞いの美しさ。特に上半身の緊張感が美しく、方向転換する度にそのブレない姿が気持ちいい。一歩一歩の足の運びも面白い。滑るように音もなく移動したかと思えば、ドシンドシン、と重く踏みしめる。「融」の後半部は源融が静かに舞う動作が主であるので、一見地味で退屈そうなのだが、この身体全体を綺麗に使う所作は思わずため息モノ(むしろ謡曲パートが退屈…何言ってるかよく分からないので…)。

 今回特に新鮮だったのは、能における囃子の面白さ。舞が激しくなると、完全にダンスミュージックと化する囃子!!ああ…あのメロディで踊れるのは日本人故なのか?体が自然と動いてしまう。韋駄天と足疾鬼との戦いが描かれる「舎利」でも、その縦ノリ度は増すばかり。照明と音響効果で現代風に演出された能は、まさしくダンスステージ!これは今後も新たなマッシュアップによって新しい能の魅力を引き出せるのでは…!?

 また何か行こう。きっと行こう。次は能か狂言か。