ボクらの時代(2018/02/04)

高橋一生の話が面白かったのでグーグルドキュメントに聞かせて自動書き起こししました。当然手直したくさんしたけど便利な世の中だなぁと思う。

 一番最初ははやっぱり受動で。ちょっと塞ぎがち、人見知りのすごい究極みたいな形だったから、祖母がもう色んな習い事させてくれるんだけど、児童劇団入って何かをお芝居するっていうことに対しても…全然それこそわかってないんだけど、自分じゃない何者かとかになっていくっていうことが、多分おもしろく感じちゃったんだと思う。楽器とかエレクトーンとかバイオリンとか水泳とか…色んな事を半ば無理矢理行かされてて…それだけは続いた。

 多感だったと思うからすごく。だから泣く「演技」というものをやらされたりとか…ということに「わぁ気持ち悪い」と思ってたし、そういうことを「じゃあ何でやれてんの大人の人達」みたいな風になって…。結果的に演じるって言う事の技巧的な部分を学ばされていったんですね。で、こう技巧技巧って言って重ねていく時に、なんか分かんないこの技巧っていう世界が…不思議になっちゃってやめちゃったのかもしれない。テクニカルな物っていうものが子供ながらに嫌で。

 でやっぱ3年経ってあることをきっかけにもう1回やり直させてもらって。そん時に色々試していた事っていうのは、どうにかして「本当っぽくいれないかな」っていうことよりも、「本当になんねーかな」みたいなことになってくるわけ。同級とかの友達とかは「また演技上手いね」って日常生活で言われたりするのが物凄い腹立って。そっからもう試し試し「演技をしない」って方向にどんどんどんどんシフトしちゃったのかもしれない。

 蜷川さんが生きてる時に言ってて…すごく僕はそれを未だにずっと思ってるんだけど「演技って誰かになることじゃなくて、いつか成り得た自分になるんだよ」って言われて、未だに僕はそれをやろうとしていて。だから役作りっていうことをしてしまったら駄目だと思っていて。で、役作りってこういうところで話すと…たくさん苦労話でてくるでしょ、きっと。苦労を見せる人ってプロじゃないから(笑。頑張るのが標準だから、プロって。だからそこの部分は15から20代頭ぐらいまでは感じていて、やっとフォーカスがお芝居をやっていこうって言う風に搾られていた過程だった。

読みやすいように適当に「なんか…」等の間をつなぐ単語は削った。上記の話と全く関係ないけど、話し言葉ってホント冗長だよなと思う。でもそれって話しているときには全然気にならないし、なんか自然なのだけれど、文字にした途端になんかそれが現れる。不思議だ。なんか不思議。なんか気になる。