ライオンキング

 劇団四季のライオンキングを見る。随分昔に連れて行ってもらったことがあったので2回め。前回観たのはぼんやりしか覚えていないのだけど、二階席だっただろうか。動物に扮する衣装がとても鮮やかだし、歌声がすごく通るしでとても楽しかった思い出。今回も改めてそう思う。

 しかしライオンキングって物語自体は古典だからこそ許されている構造があるなぁと思う。シンバが王の血筋に目覚めてプライド・ランドを取り戻そうとする仕組み。血筋に目覚めて力を得る、という構造は王道ファンタジー作品によくある話だけど、現代的な視点で考えると「血筋に縛られている」とも見える。むしろ血筋に縛られた状況から、自らの内なる欲求によってそれを打ち破る、的な物語のほうが現代的か。少なくともシンバは「ハクナ・マタタ」の原則の元、過去の失敗から解き放たれ、気ままに暮らしていたわけだ(今調べたら「ハクナ・マタタ」は「くよくよするな」の意だった。劇中では「失敗なんて忘れちまえ」的な意味だったが…まぁもたらす結果は似たようなものか)。それを父親であるムファサの呪いとも言える言葉によってプライド・ランドを取り戻すことを決意するわけだけど、彼がそれまで子供から青年になるまでの過程だったり、それまで過ごしてきた自らの信念みたいなのはアッサリと捨てられる。なんかモヤモヤした。野生に目覚めた青年シンバが、偶然再会し、美しく魅力的に成長したナラを得るために、闘争に向かう…!という流れの方が納得感ある。納得感だけでなんか英雄的な話ではなくなるが。うん、いいんだ。桃太郎だろう?懲らしめる鬼のことなんて考えてたらお話は作れないよね。敵対する双方に正義があるっていう構造が強く根付きすぎている。あ、でも野生と性欲だけでスカーとハイエナどもを蹴散らしていくんだけど、途中自らの暴虐に気づいてスカーたちを許す、みたいな展開になると英雄的な層もご満足頂けるのかしら。

 あとハイエナを絶対悪に据える配役も良くないよね。ハイエナが劇中で悪いもんとされている理由は「ハイエナ」だからみたいな所あるし、良いハイエナが現れて「ハイエナにも多様性が!」みたいな展開も無い。ライオンキングが最近生まれた物語であったならば、神経質な人々が「人種差別を助長する」と騒ぎ立てるであろうことは間違いない!…なんてことを考える時点で、自分も住みにくい世の中を作る歯車になっているなと感じる。

 全ての人に配慮したエンタメなんて作れねえよ!ばか!