誰の物語だったのか:嵐吹く時も

嵐吹く時も〈上〉 (新潮文庫)

嵐吹く時も〈上〉 (新潮文庫)

嵐吹く時も〈下〉 (新潮文庫)

嵐吹く時も〈下〉 (新潮文庫)

 時々三浦綾子の作品が読みたくなる。その生涯の中で多くの困難を経験し、またその中で敬虔なキリスト教徒として生きた彼女の作品は、その鏡であるかのように生きることに純粋だ。この「嵐吹く時も」も正にその一つ。

 上巻は志津代が結婚する前の苫幌の話。同じ三浦綾子の「氷点」と話がかなり似ている。特に重要な登場人物の順平とふじ乃は祖父母がモデルになっているとあとがきで語っているが、同じ事件が祖父母にあったということだろうか。それまで仲睦まじい関係であった夫婦の関係が、やがて無言のうちに壊れていく空気が凄い。ところどころに志津代と文治の淡い関係なども描かれるが、やはり上巻を支配する空気はよどんでいる。
 下巻では深い罪の意識を背負った人間の罪に対するやりとり。順平の死からきっかけを得てそれぞれが背負った罪の意識を、作者のキリスト教的な思想から描く。

自分の犯した罪には、人間はいくらでも逃げ口上を探すことが出来る。
そして人間は、自分をそうそう悪い者ではないと、思いたがる。

人間というのは、百人が百人、千人が千人、思わぬ生き方をしてしまうものなのかも知れない

あとがきより

一人の人間の生き方が、どんなに周囲の人々を幸福にしたり、不幸にしたりするのかを、改めて思った。


どの部分に共通することは、人間は罪を犯さずして生きていけないということ。

 三浦綾子が時々読みたくなるのは、その作品を通して、生きる意味について考えるきっかけになるからだと思う。特に印象的なのは善い人として描かれる人が、不運な事故で死んでしまうことが多々あることだ。本作も新太郎の突然すぎる死で結末を迎える。子供の頃から甘やかされ、嫉妬深く、どこか不気味さを持った子供だった彼が、

ぬるま湯ってやつ、外に出たら寒いんじゃないのかな。
俺、何だかそんなひ弱い人間になりそうで、あの家を出たんだ。

という台詞からも分かるように、何かを得て新しい人生を歩もうというその時に。

 結局の所、そういう結末を用意したのも、登場人物にそういった運命を用意したのも、フィクションであるが故にそれは三浦綾子その人の仕業なのであるが、何かこう明日から頑張ろうという気になる。多くの困難を乗り越えてそういう考え方にたどり着いた彼女の言葉だから、素直に考えるのかも知れない。