それから子どもはどうしたか

 いろんな作品の感想を聞くときに「リアル」という言葉が引っかかってならなかった。たとえば戦争映画を、戦争体験がない世代が見たときに、「残酷でリアルな描写。戦争の凄惨さを知った」という言葉には、決して自分自身の経験によって裏打ちされているわけではなく、ただ単に「描写が痛々しい」くらいの根拠しか無いように思われる。だからこの場合のリアル、というのは「実経験とそっくりだ」というリアルさではなく、「こんなことありそうだ」という感覚の方が大きいと思われる。かくいう自分も、戦争映画といえばフルメタル・ジャケットが好きなわけだが、それというのも、他では描写しないハートマン軍曹の突き抜けたキャラクターに「リアル」さを感じるからである。しかし、本当にあのような訓練がされているのかどうかは経験したことは無い。

 詰まるところ、「人間は信じたいものを信じる」というところに落ちる。彼らと自分のリアルは、自分の信じたい現実に基づく。そして元記事内で言及されている「読みやすさ」についても同じことがいえる。

それから「読みやすい」というところだ。細かい風景描写などそもそも書いてあっても読まない。

つまり読みやすさとは、自分自身が信じるのに容易な形であることであるということではないだろうか。

自分はケータイ小説なるものを読んだことがないので、それを否定することは出来ないけれど、そのユーザーの大半の感想が「リアル」「読みやすい」なんだとしたら、それは感情や思考の単純化が進んでいることのサインなのかもしれない。

良識ある大人は何も子どもが欲しいと思っているものを与えてくれない。子どもを使って商売をしようと思ってる大人だけが、欲しいものを与えてくれるのだ。代わりのものも与えられないくせに、罵倒して放っておいて大人面されれば、そりゃー大人ウゼエって話になるわな。

 そのウゼエ大人に与えられた情報を、とりあえず摂取するしかなかった昔は、そこからインスパイアを受けることによって、複雑な思考へと発展してしていったのかもしれない。自分の欲しい情報を容易に得ることの出来る、インターネットやケータイを子供が手にした結末は、思考の単純化か。

決して例外でない、自分への戒めを込めてエントリを残す。