学校教育は体罰を容認しないと成り立たないのではないかと思った話

 世の中には体罰を受けて育った大人とそうでない大人がいて、かつその体罰の結果において良い方向へ育った大人と、そうでない大人がいる。何を良い方向とするかは非常に曖昧だが、とりあえずその話はおいておこう。とりあえず社会生活を営む上で常識的な行動が出来る人間、としておけばいいかな。つまり体罰に係る教育においては、4種類の結果を生み出すことになるわけである。まとめるまでも無いけれど、あとの記事のためにとりあえず。

A:体罰を受けて良い方向へ育つ
B:体罰を受けて悪い方向へ育つ
C:体罰を受けずに良い方向へ育つ
D:体罰を受けずに悪い方向へ育つ

 現在成人している世代においては、Aパターンの人たちが多いだろうか?特に根拠があるわけではないのだけど、なんとなくの感触として。今から10数年前というと、今ほど体罰に対する反応が敏感でなかったような気がするし、事実自分も親から先生から叩かれて叱られたものだ。そしてそうして受けた体罰というのを決して酷いものだとは思わなかったし、今現在も思わない。つまり体罰を受けるだけの相応の過程と結果があったわけであり、そうでなければ自分という子供を叱る手段は無かっただろう。ここで大事なのは「相応の過程と結果」である。

 結果というのは他人に迷惑のかかる失敗や行為なわけだが、初めてそういう結果を出してしまったときは体罰は受けない。言うまでもなく人間、ましてや子供の行為には誤解や失敗がついてまわるものであり、それらは容認されるべきものだ。つまり「相応の過程」が存在するために、体罰は発生する。何度注意をしても止めない、ルールを故意に破る、他にもいじめや万引きなど、明らかに倫理に反する行為を犯す、等々、「口で注意するだけでは言う事を聞かない」という子供特有の野蛮な好奇心に起因するわけである。

 さてここで体罰禁止を声高に叫ぶ人々の事を振り返ると「痛みを与えなくとも、言葉によって理解させることが出来るでしょ?」というのが主張の柱である。つまりここで体罰容認派と子供に対する認識にねじれが起きるわけだ。実際はねじれているわけでも何でもなく、その様な子供がそれぞれ存在するわけで、つまり「子供」と言ってひと括りに出来るほど簡単でないことは、昨今のあらゆる場面に見られる。

 と、そんな事をAパターンの大人とCパターンの大人が体罰についてお互いの主張をぶつける場に居ながら考えていた。自分としてはAパターン派に与したいところだが、なるほどCパターンによってもキチンとした教育が出来るならば、それに超したことは無いしむしろ望ましい。だが結局の所、親に受けた教育は自らが親になった時に子に与えるものになり、前述した子供に対する認識については自分の経験に基づくので、体罰は無くなることは無い。

 ではそういった様々なタイプの子供が集まる学校において教師はいったいどうするべきなのだろうか、と言う所で、やっぱり体罰をある程度容認しないと立ち行かない場面もあるのではないかと思うのである。当然「言葉で注意する」という段階を踏むのは当然だが。それでCパターンの子は守れる。で、それで改善出来なければ罰を与える事によってAパターンの子を生む。それで大部分がカバーできる…ハズ。問題なのはBパターンの子だが…見極めはどうしたら良いのだろう、と言うのが次の課題。他にも口で言っても体罰を与えても言うこと聞かない子はどうするのか…と色々ありますわな…。



 教育に係わっている訳でもない人間が憶測だけで物を書いてみました。異論は認める。