雨に唄えば

 面白いような気がする。ダンスや歌も楽しくて引き込まれる。でも気になるのは、声が悪くてトーキー映画で活躍できなくなってしまった女優だ。彼女は、ドラマ的に都合の良いことに、大変高飛車で狡賢く、笑いものにしてもいい存在として劇中では扱われる。しかし彼女が謙虚で努力家だったらどうだろう?そんなこと考えるのは全く無意味なのはわかるけど。しかし持って生まれた「声」という、変えようのない個性を笑いものにするのはちょっと気の毒な気がしてしまう。そういう発想は今風のフィクションのつまんないところかもしれないけど、声をいじるのが特に好きじゃないんだよねぇ…。いじめじゃん。リナ役のジーン・ヘイゲンWikipediaによれば、地声ではなくて作った声で演じていたようだ。だからジーン・ヘイゲンを笑うことにはならなそうだが、変わった声の人っているし、何を変わっているかという価値観もそのコミュニティーごとに違う気がするし、そんな人々がどういう気持ちでこの映画を観るだろうということが気になってしまった。全くどうしようもなくつまらない物の考え方であることはわかっている。素直にフィクションを楽しめ。リナはいない。外見は美しいのに、声が変わっているが為に、無声映画からトーキーへの変化についていけず、ステージで笑いものにされて、トップスターの地位は当然失われて、きらびやかな仕事は無くなって、しかし抑えきれない自己承認欲求と過去の栄光を捨てられず、役者の仕事を得ようとするのだが、道化のような役ばかりで、自尊心が傷つけられた上に、笑わせる意図が無いのに、何かを話せば嘲笑されるようになってしまい、その恐怖の為に徐々に口数少なくなり、前向きだった性格はいつの間にか消極的になって内にこもりがちになって、仕事も全然無くなって貧困にあえぐようになり、知り合いの芸能関係者を頼ってお金の無心をしてもらいながらブロードウェイをふらふらとしていると、元パートナーのスーパースターとその恋人である若くて声の美しく才能ある女優が演じる大ヒットミュージカル映画のポスターなんかが視界に飛び込んで来ちゃったりして、怒りと惨めさと、そして自らの声に対するどうしようもない無力感に襲われて無我夢中に走り出したりすると、通りでマフィアのような怖い男たちにぶつかってしまい、色々とイチャモンを付けられた上に事務所につれて行かれて、たいして汚れていないスーツのクリーニング代を身体で支払うことになって男たちの慰みものにされた上に、セックスの最中にも男たちにその声を笑いものにされて、屈辱のあまり感情は死んでいき、さらに監禁されて娼婦のような扱いを受け、怪しげなクスリを打たれて日常生活がまともに送れなくなり、精神も肉体もボロボロになったところで放り出されて雨に打たれながら、陽気なタップダンスで幸せを歌うスーパースターを横目に野垂れ死んでいく女優はいないので、安心だ。