ある男の物語

 数年前に犯した大きな失敗から、私は現在の生活を続けている。それまで会社では、順風満帆…とは行かないまでも誰からも信頼される良い社員であったと自負している。しかし私はそれ故に、外に存在していた敵に最後の瞬間まで気付くことが出来なかった。私にもっと余裕さえあれば…いや、今一度あの事を思い出すのは止めておこう。とにかく私は会社を辞めざるを得ない事態に陥った、そう仕向けられたのであった。

 それまでの過程はどうあれ、生活費を運んでくる事(私が家庭の中に存在していた唯一の理由)の出来なくなった私は、家庭という歯車には不要な存在となった。当然の事だろう。「家庭との団欒」などと言った甘ったるい響きには当時興味が無く、1秒でも多くの時間を仕事に費やすべく努力してきた。それが間違いだとは今でも思ってはいない。自分なりに家庭の幸せを形にするための行動だったからだ。だが私のそんな意図とは別に、妻と娘との関係は悪化する一方で、気がついたときには戻れない所まで来てしまっていた。最後に言葉を交わしたのがいつだったのか思い出せない。私がわずかに記憶しているのは、会社を辞めたことを告げた時の、例えようもない冷たい表情の二人だけだ。気まずい…そんな安易な言葉では片付けられない深い隔絶が、私に何よりも重い絶望を与えた。

 だが幸いにも、二人は私一人をおいてどこかへ消えた。それは薄曇りの土曜の事だった。何もすることの無い私は、朝から仰向けになったまま目だけで天井の模様をなぞっていた。ただでさえ北向きで暗い私の部屋は、昼過ぎにも係わらず未だカーテンが締まったままでなお暗い。目は悪い方ではないが、ぼやけてハッキリしない箇所を何を考えるでもなく何度も反復していると、表にクルマが駐まったことに気付いた。深く低い、それでいて耳障りでない上品なエキゾーストノート。と、同時に静かにドアが開き、「さようなら」と妻の声が聞こえた。目だけでそれを追うと、踵を返す彼女の後ろ髪が僅かに見えて消えた。言葉を理解していても意味が分からない。いやそれを理解しようとする努力すら出来なかった。ピクリともせずに再び視線を天井に戻すと、聞こえていたはずの排気音がいつの間にか消え、そして完全な静寂が訪れた。

 正直なところ、彼女らから解放されたことは幸運だった。私一人ならば、いくらでもやりようはある…。それこそ死んでしまうことだって選択肢にはあるのだ。涙が一晩中止まらなかった。

 結局の所、私は生きることを選択した。私にだってまだやりたいことがある、まだ死ねない…と言えば聞こえは良いが、正直な所死ぬ勇気が無かったといった方が正確だろう。しかし現実的には、職を失った私は放っておけば死に逝くだけの存在である。金を稼ぐ必要があったが、私には特筆すべき職能は無い。さらに年齢的にもまっとうな会社への再就職は難しい。残された選択肢は、ただ一つである。そういう訳で私はアルバイトをしながら生活している。

 会社員生活にすっかり慣れた私は、「アルバイト」という雇用形態で自分が労働する事に戸惑いを覚えた。また、自分の娘よりもずっと若い「先輩」に物事を教えて貰う事もそうだ。私のちっぽけなプライドがそういう事実を受け止めることを邪魔していたのだ。接客をしていても、客の目が気になる。私を蔑んでいるようなあの目、哀れむような表情。今笑ったのは私の事か?あの母親は、私を見つめる子供に何を吹き込んでいるのか…。

 だがそのちっぽけなプライドは数ヶ月後、いともあっさりと、やはり幸運な事に道を譲り渡してくれた。昔から耐えることは得意なのだ。感覚を麻痺させて何も感じないようにする…それが様々な事を乗り越えるコツなのである。それに、冷静になって見てみると、私のような年齢の人間がアルバイトをしていることが珍しくない、と言うことに最近気付いた。彼らは一見異様であるが、次第にその存在が増え異様さが薄まって行く。その事も私の感覚を麻痺させてくれる材料となった。

 私はその日も深夜のコンビニエンスストアで、いつものように綺麗に整った棚を何度も整理して時間を潰していた。深夜になると人気がぱたっと無くなる通りに面したこのコンビニは、勿論客が来る事もめったに無い。元々コンビニエンスストアは24時間営業を前提に始まったシステムではないので、こんな電気の無駄遣い以外の何物でも無い営業は、昨今のエコ思想から見ても糾弾されるべき…などと無意味に動く両腕と同じく無駄な妄想を弄びつつも、しかしこうやって私に給料を与えてくれる無駄システムには感謝しなければならない。無駄システムに生かされる、落ちぶれた私。まぁ釣り合いが取れているとも考えられるではないか。あぁ無駄無駄無駄…。そんなことをぼんやりと、延々繰り返される店内BGM同様いつものように考えていると、入店を告げるチャイムが、大きな私の転機となる鐘が鳴り響いたのであった。

 自動ドアが開いてチャイムが鳴ると、私はすっかり染みついた動作を反射的に繰り返してレジに入った。横目で追った客は動きが妙に直線的で素早い、という事がやや不自然だったが、勿論そういう客が居ないわけではない。その時も私はトイレかタバコかなと思いつつ、同時にレジに入る動作を速めた。しかしパッと客と目を合わせた瞬間…いや、もっと強烈に光を放つ刃に目を奪われた。グリップを堅く握ってコンパクトに構えられた、刃渡り15cmはあろうかというナイフ。深夜のコンビニに剥き出しのナイフ。それが何を意味するのか…選択肢は多くない。間違いなく強盗。短く思考して結論を導くと、死の危険を感じて瞬間的に身を守るように身体が固くなった。

 「泥棒!泥棒!」泥棒ではない、この場合強盗だ。しかしいよいよ目の前まで迫ってきた強盗犯を前に、そう叫んでいた。ところで後から防犯カメラの映像を見て気がついたのだが、どこか片言で大声を上げて慌てる私は、しかし頭の中は驚くほど冷静だった。何しろ「泥棒!」と言った後に、「違うこの人は強盗だ。『強盗!』と叫び直すべきだろうか?いや、それでは自分の間違いをこの場で認めるようで滑稽だし、むしろ慌てた自分を演出しておいた方が相手を刺激しないのではないだろうか。しかし大声を上げた時点で、十分刺激を…」などと分析していたくらいだ。

 素早く回り込んでカウンター内に入り込んだ男は、「金を出せ」、とあまりにもひねりの無い脅し文句を放った。しかしすっかり動転した私の身体には、そんな簡単な言葉の正確な意味すら解することが出来ない。数回反芻してやっと言葉が身体に染み込んだ後、私はやっとの思いで「金持ってないですよ!」と言うことが出来た。繰り返すが、私の意識は慌てふためき、挙動不審な身体とは全く乖離した冷静な状態だった。今自分自身が放った言葉ですら、「いや当然お前個人から金を取ろうと思ってるんじゃなくて、店の金が欲しいんだろうが」とくだらないツッコミを入れる程に。

 そもそも何なんだろうかこの男。コンビニ強盗?全く向こう見ずな犯行もあったものだ。マスクで大きく顔を隠しているが、目が丸出しだ。人間の表情は目で大きく決まる…マスクかサングラスか、顔を隠すのに選ぶなら目の隠れるサングラス一択だ。例え覆う面積が少なくなろうとも。頭隠して尻隠さずとはこのことか、いや尻だけ見えても人間の特定は難しい。ならば目を隠さないこの男はそれ以下だ。加えてコンビニエンスストアという条件。24時間営業が今やコンビニの絶対条件となっていることと同様に、防犯カメラが複数設置されていることもコンビニの持っている要素である。逃れることは出来ない。この男はここで金の強奪に成功しても、逃げられないだろう。

 だがそれ以上に私の意識をイラつかせている事実があった。それは男が強盗によって、安易に金を手に入れようとしている事だった。私は仕事や家庭を失うような愚鈍な人間だ。そのことは認めよう。それでも関係の無い人間を巻き込んで生きること、つまり犯罪を犯してこの命を長らえることはプライドが、人間として最低限のプライドが阻んできた。私はそのことを誇りに思う。だからこそ私はアルバイトという立場を受け入れることが出来た。55にもなった男が、非常に弱い社会的立場で、客や同僚の嘲笑うような視線に耐えて少ない金を稼ぎ、趣味を持つわけでもなく、生きる楽しみもなくただ生きるために、得た金が消える。私の存在意義とは何なのか?若い時分は仕事をすることによる自らの社会的価値や、貢献度などを声高に主張して息巻いていたものだが、本当にあの頃の感情は何だったのだろうか。すっかり乾いてしまって思い出せない。そのことがまた私の感情を逆撫でする。

 男はしどろもどろしている私に、金庫を開けるように要求した。まだ私の身体は動転していたが、乖離していた意識が怒りで徐々に押し戻され、まともな会話が出来るようになっていた。「開けられないよ、僕アルバイト」再び何故か片言になってしまったが、アルバイトには店の鍵を預かる権限はないので正確な事実である。

 しかしそんなことはどうでも良かった。私は自らその立場を口にすることで、どうしようもない劣等感を今更ながらに感じたのであった。『僕アルバイト』涙が溢れそうになった。私の人生とは何なのか。もっと違う形の、成功した将来を望んでいた。妻と思い出を語り合い、仲良く子供を育てながら夢見た未来があった。仕事には誠実に打ち込み、将来有望と目された事もあった。ずっと思い出さないようにしてきたこと、何故今この場で、この状況で…。目の前の危機的状況が一瞬意識から遠のく。

 「アルバイト?」しかし無粋にも男は私の言葉を繰り返し、私の意識を一気に現実に引き戻した。これは良くあることで、おそらく同意して貰えると思うのだが、事実について自嘲するのは、むしろ自らを慰めている意味合いがあるが、同じ内容を他人が口にするのは残酷な刃となる。それに男は、疑問形で私を問いただす時、どこか下卑た笑いを浮かべていたように思う。いや、絶対に笑っていた。

バカにしてやがる。強盗のくせにまっとうに生きている俺を笑った。

「アルバイト分かんない」もう完全に独り言だった。自分を抑える為に言ったつもりだった。再び自らの口で、自らを規定することで、煮えくり返る感情を沈めることが出来ると思ったのだ。そう、これまでしてきたように…だがニヤニヤと薄汚く笑う相手の表情がチラリと視界に入ってしまった。ゾワッと音を立てて感情が真っ黒に染まる。

 その瞬間、頭の中で何かが弾けて感情が決壊した。それから先は良く覚えていない。気がつくと手近にあった新聞紙の束を鷲づかみにして、レジ台の上に立ち叫んでいた。劣等感を吐露するように、逆説的ではあるが自らの立場を宣言して襲いかかる。相手が凶器を持っている、という事実すら眼中から消えていた。一瞬のうちに恐怖の表情に変わった相手は、武器を持っている優位性などすっかり忘れてあっという間に逃げに転じる。ざまあみろ、犯罪に手を染めるような意志の弱い人間などこの程度だ。俺をバカにするな…貴様は人間として最低限のプライドすら捨てた犯罪者だが、俺は違う。貴様などに見下される覚えはない…俺は、俺は誇り高い…俺は…!

「僕、アルバイトォォォ!!!」

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