ヘアスプレー

ヘアスプレー [Blu-ray]

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 年始休みの最後に映画を観る。今年はもうちょっと映画を観たい。

 母親役の大柄で太めの女性をジョン・トラボルタが演じているというのがすげぇ話だ。そんなキャスティングある?すごいな。なぜ実際の女性でなくわざわざ特殊メイクのジョン・トラボルタであったのだろうか。…と思ったら、このリメイク元になっている元々の映画からエドナ役は男性だった模様。そのポリシーが引き継がれて、ということか。え、そしたらどうして元の映画は男性だったのさ…。大柄&豊満な女性役者が当時見つからなかったとかそういう話かな…。理由をググってみたいのだがすぐには見つからない。男性が演じることで男性同士の恋人関係、ゲイ、そしてLGBTにたいする差別すらも払拭したい、みたいな考察も見つけた。しかし結構メイクががっちりしてて、ちゃんと女性に見えてしまったけどなぁ…。不思議。

 差別を無くすことも、性別や体型なんか気にせず自分のやりたいことをしよう、行きたいように生きよう。確かにそうなんだけど、それを受け入れられないことも含めた多様性を認めて、自由に生きることができるだろうか。自分の権利を主張し、それが受け入れられない世の中を批判する、それは自由だ。だが、世の中だって自由意志の塊であるから、その思想を拒否することもまた権利。多様性の難しいところである。善悪の境界線があるとすればそれはどこなのだろう。ヘイトスピーチ表現の自由とするかって判断に似ている。ちょっと例が低俗すぎるか。でも怒りや憎しみの表明だって権利だよね。肥満もそう。肥満のトレイシーはいつもニコニコしていて前向きで幸せそうだ。おそらくその母親譲りの体型によって小さな頃から様々な嫌な思いもあったであろう。実際に劇中でもそういう描写はある。ただそれにめげない。自分が美しいと思うものを信じる気持ち。そういうのが大事なんだ。それに共感する人もいるだろう。共感できずに離れていく人もいるだろう。んーでも、その信念が社会とうまく噛み合わない人はどうすれば良いのだろう?信念があることは重要なことだが、それが周りと噛み合わなければそれは「ひとりよがり」「自分勝手」という存在になってしまうではないか。また信念を貫くことによって自分が不幸になってしまったら?劇中のトレイシーはリンクと結ばれたが、「僕は肥満の子はどうしてもダメ」っていうリンクだったらどうなのだろう。トレイシーは「まぁそういう人もいるか。リンクのことは諦めて、自分のこと好きな人探したろ!」って切り替えていくのかな。トレイシーの父が確かにそういう存在の証明となっているのだけど、逆にいえばその為の装置とも言える役なのでは…。マイノリティの戦いの難しいところだ。答えの無いことを悶々と考えながら本作を観終える。楽しかった。