いきなりタイトルと違う本なのだけど、岡本太郎の今日の芸術という本を読んだ。岡本太郎という名前と、いくつかの作品はぼんやり知っているけれど、著作も結構あるんだ、ということはアマゾンでこの本にたどり着いて初めて知る。芸人なら芸で語れよみたいな古い言説と同様に、芸術家なら作品で語れや、みたいな思い込みをしていたようだ。本作を読んで岡本太郎という名前が、芸術素人である自分にも届いている人物であるということを、少しだけ理解したかもしれない。(なんとなく冗長な文章。英訳するのが難しそう)


 本書の中で面白かったのは「デタラメに描け」「自由に描け」ということについて語っているところ。何かモノサシだとか、正しいとされているものを模倣するような方法は芸術ではない、と。芸術とは創造であり、新しさことを芸術の命だという。

 本当の新しいものは、そういうふうに新しいものとさえ思われないものであり、たやすく許されないような表現のなかにこそ、本当の新鮮さがあるのです 。

 ほんとうの芸術はなぜ心地よくないのでしょうか。(中略)すぐれた芸術には、飛躍的な創造があります。時代の常識にさからって、まったく独自のものを、そこに生み出しているわけです。そういうものは、かならず見る人に一種の緊張を強要します。
 なぜかと言いますと、見るひとは自分のもちあわせの教養、つまり絵にたいする既成の知識だけでは、どうしてもそれを理解し判断することができないからです。そこには、なんとなくおびかされるような、不安な気分さえあります 。

新しさこそ命。この辺は風姿花伝の「珍しきが花」というところに共通する認識。ただ違うのは、はじめは不安を呼び起こすようなものであるという事なのだ。珍しくて面白い、気持ちいいではなくて、不快。このへんに著者の芸術ににおける社会の役割みたいなものを感じる。たくさんの不安を呼び起こすようなものが、後々大きく認められるものになるのだろうか。不安や違和感が大きいけれども、なんだか心地よい、目が離せない、惹きつけられる、こんな葛藤をうむ作品が傑作ということなのかもしれない。

 そして若干遠回りしたけれど「デタラメに描け」という話。既存の概念にとらわれるな、不安を想起するような新しいものを自由に描け、という話になってくるのだけど…。結局のところそれは普通の人はできない!できないものはできない!凡人はそのようなものだと思う。デタラメやろうとして、自由にやろうとして、どこかで何かこれまでの経験を元に、違うけれども何かが下地になっているモノを生み出しているんだと思う。できないと思うからできないのだ、みたいな悪魔の証明に付き合う気は無い。というか普通の枠を外したくて奮闘するし、思い切って踏み込んでみるけども、やっぱり普通の枠の中にいたりして失望しながら生きているんだ。社会性を逸脱した天才の立場から、芸術なんてデタラメにやればいいんですよ、なんて言ってくれるな。イライラする。

 逆に言えばその軛から脱する精神を持ったものこそが芸術家なのだと思うし、その希少な存在を普通の我々はうらやましいと思ったり、珍しいと思ったりして、世の中に価値が生まれる。仮に世の中がデタラメだらけだったら、それはデタラメとは言わない。デタラメというのは、社会性だったり、普通、規律、模範、我慢、忍耐、そういった概念が世の中にあるからこそ生まれる価値じゃん。誰でもはやれないよ。誰もがやりだしたら世の中が崩壊するんだっつの。

 …という感じで、個人的には反発するような部分が沢山あったので、これをそのまま飲みこむわけには行かないと思ったのだけど、岡本太郎がすごいのは分かる。芸術をやるんだという志を強く感じる。また、芸術というのものを進化させて行きたいんだという気持ちも感じる。そして反発はするけども、そういう事を大きな声で言う人間も必要だと思う。多様性、というと流行りの言葉で片付けているような気がするんだけど、物事の考え方は多様な方がきっと良い。自分と相容れない考え方を憎みつつ、存在は否定しない。嫌いだけど存在はしていい。世の中はそうやってグチャグチャに混ざっていた方が健全だと思う。

響 -HIBIKI- Blu-ray豪華版

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 で、この映画なんだけど、主人公の響がわりと岡本太郎の言うところの芸術家みたいなところがあるなぁと感じながらみてしまった。小説を読むことが好きで、書くことも好き。自分が面白いと思うもの、価値観に頑固なほどにまっすぐで、他人との衝突をまったく気にしない。「ころすぞ」みたいな脅し文句に対してガチ殴りで抵抗してみたりして、それが業界の偉い人でもカメラの入った記者会見場でもお構いまし。社会性ゼロ。ただし作品はブッチギリに輝いている(どんな文章なのかはさっぱり紹介されないけど。それは仕方ないか)。

 普通の社会性のいきものである自分は、響をやはりカッコいいと思ってしまった。我を通せる人間ってのにはやはり憧れがある。響の存在はエンタメだ。ヒーローだ。なぜならそんな人間は社会にいないから。いや、ちょっとはいるのかもしれないけど。芸術家はやはり希少性にこそ価値があるんだろうなぁ。「珍しきが花」に戻ったな。その珍しい花の中でも、その瞬間の社会的不安だとか、抑圧、ストレス、欲望を反映した花だけが生き残る。

 主役の平手友梨奈の演技は、響という役にはとても合ってるようで個人的には好き。他のクサい演技の文芸部員の方が気になったな…。「学生の演技」ってなんかクサいというか、マンガっぽい感じになるの、なんでなんだろうなー。台詞がマンガなんだよな。マンガ原作だからそのまま持ってきてるとかそういう事なのかな。マンガ原作をドラマでもアニメでも、他の媒体でやるときは、その媒体に適切な形にしなけりゃだめよ。ホントにそれ。原作通りとかなんとか言って逃げるな脚本家。