戦争は女の顔をしていない


 先日読んだコミカライズ版第2巻のところを改めて読んで、すごい描写だなと思ったところをメモ。原作から。

 その後もこのように1人の人間の中にある2つの真実にたびたびで出くわすことになる。心の奥底に追いやられているその人の真実と、現代の時代の精神の染み付いた、新聞の匂いのする他人の真実が。第一の真実は2つ目の圧力に耐え切れない。家を訪問して話を聞くときに、もし彼女のほかに身内や知り合い、近所の人などが入ると、ことに男性が居合わせると、二人っきりで話を聞く時よりは、真心からの打ち解けた話が少なくなる。それはもう聞き手を意識した話になり、深い底に沈んでいる気持ちにまで入り込むのは難しかった。始終、内側の堅い守りに突き当たった、セルフコントロールに。しょっちゅう訂正しようとする。聞き手が多いほど話は無味乾燥で消毒済みになっていった。かくあるべしと言う話になった。恐ろしいことは偉大なことになり、人間の内にある理解しがたい暗いものが、たちどころに説明のつくことになってしまった。私は、誇り高く、とりつくしまのない記念碑ばかりが立っている輝く表面に覆われた砂漠に身を置くことになる。

 いつも私は驚かされた。最も人間的な素朴なことに対する不信感と、現実を理想や実物大の模型に、ありふれた温かみを冷たい輝きにすり替えたいと言う願望に。

 私は忘れられない。ニーナさんの台所で打ち解けてお茶を飲んだことを、そして2人で泣いたことを。

 精神的に深く追い詰められた体験は、深く記憶に刻み込まれるものなのだろうけど、それを表に出すときには、無味乾燥な当たり障りのないものに改変される。精神的な自衛行動なのだろうか。逆にそのような記憶を引き出した著者のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの誠意を感じる。

 また、その精神的な自衛と共に、やはりこの体験や経験を共有したいという気持ちも強くあることが、ワレンチーナ・パーヴロヴナ・チュダーエワの話からわかる。この辺りの矛盾した状況が、人間というものが単純にひと括りに理解することはできないということがわかる。

 そして取材先の住所や電話番号の長いリストをくれた。「みんな、あなたに会うのを喜ぶよ。待ってるよ。どうしてか教えてあげよう、思い出すのも恐ろしいことだけど、思い出さないってことほど恐ろしい事は無いからね」

 この人たちがなぜやはり話すことにしたのか今はわかる。