中世ヨーロッパ ファクトとフィクション

まえがき
イントロダクション
第1章 中世は暗黒時代だった
第2章 中世の人々は地球は平らだと思っていた
第3章 農民は風呂に入ったことがなく、腐った肉を食べていた
第4章 人々は紀元千年を恐れていた
第5章 中世の戦争は馬に乗った騎士が戦っていた
第6章 中世の教会は科学を抑圧していた
第7章 一二一二年、何千人もの子どもたちが十字軍遠征に出立し、そして死んだ
第8章 ヨハンナという名の女教皇がいた
第9章 中世の医学は迷信にすぎなかった
第10章 中世の人々は魔女を信じ、火あぶりにした
第11章 ペスト医師のマスクと「バラのまわりを輪になって」は黒死病から生まれた

 まずは目次。だいたいこれらの「中世っぽい」ことは全部中世のことではない、事実では無い、そんな記録は無い、というような事が書いてある。

 どうしてこういうフィクションが、さも事実であるかのように語られるようになってしまうのか、というのが章ごとにだいたい同じ理由で繰り返し説明されている。訳者あとがきにまとめられていたので引用。

  1. 短慮軽率型:1つ、あるいは数少ない史料に記された内容を時代全体に敷衍すること。これは史料が断片的にしか伝来していない中世についてしばしば生じる落とし穴であろう。1つの出来事、1つの史料的根拠から1つの時代を説明したい、歴史の大きな流れを一括りに捉えたい、と言う欲求にあらがう事はなかなか難しい。
  2. 優劣比較型:異なる時代、異なる地域と比較して優劣を決めてかかること。本書第1章で中世がどのように「暗黒時代」と認識されるようになったかを読むと、そのカラクリが容易に理解できるだろう。
  3. 人身御供型:歴史的な出来事の原因・責任を、何かしらの先入観に基づき、何か1つの主体に押し付けること。本書を読むと、中世の非科学的な「後進性」に関連して、カトリック教会がいかに槍玉に挙げられてきたかわかる。

 人は信じたいものを信じる、ということが永遠に繰り返されているという話。中世に限らずこのような少ない情報から、信じたいように事実を捻じ曲げてしまうという現象は今更説明するまでもなくインターネットで毎日起きていること。これがインターネットという形で現代に可視化されているだけで、当然のことながら中世を語るこれまでの長い長い歴史の人々も同じだったという話。

 識者のツイートひとつで全体を語りたくなったるニワカ、売上によって作品の優劣を決めて覇権と安易に冠づけたりオタク、未曾有の危機に対応する政治を必要以上に責める正義マン。それが人間の生態というものなんだと思う。

 しかしその愚かさや弱さを肯定しよう。文明が文字媒体として記録されるようになった過去からずっと、同じ間違いを繰り返しているのだから。今更この生態を変えられるものではない。肯定した上で、他者はそれを許容し、しかし改善できるように指摘しよう。本人は指摘を受け入れ改善の努力をしよう。ただそれは人格の否定ではなくて、人間自体の欠陥なのだから不可抗力なのだ。後ろめたさや、敗北感、精神的ストレス、その他ネガティブな感情をもつ必要がない。同様に指摘した側も決して相手よりも賢いこと、強いことの証明ではない。自分にも容易に起こり得る現象なのだ。注意深く構えていてもファクトとフィクションは同じ顔をしていて、見分けることはとても難しい。

 やや脱線。インターネット正論正義マンって人を傷つけることだけを目的にしてるのが問題だなと思う。いわゆる論破。言葉で捻じ伏せて本人が気持ちよくなって終わり。でも違う。世の中は複雑で正論だけが正解では無い。そして本当は議論の先に幸福や豊かさがあることが正解なのだと思う。それらのない正論での論破は無意味。ただ理論で捻じ伏せた気持ちよさと憎しみが生まれるだけ。気持ちよさは溶けてなくなり、憎しみは蓄積される。全体にマイナス。結果そもそもそれは正論では無い。

 話を戻して人の愚かさを肯定したい話。話は戻すけどちゃぶ台返し。でも結局集団のどこかに弱さに対する強い忌避感、憎しみ、後ろめたさみたいなものが発生するから、永遠に争いが再生産されるんだろうなとも思う。一度に人間の思考にアップデートが起こらない限り。そんなの無理。人類補完計画かな。中世の間違った情報だって、歴史家がきちんと否定したり、正しい情報で訂正していたそうだ。だけども自分に都合の良い情報が再び現れる。戦争は無くならないんだ。せめて小さく自分の周りだけでも、そういう弱さを許容する繋がりでありたい。

 あと弱さを許容することと、弱さに無抵抗なのも違う。弱さに対する後ろめたさだけを無くす。めんどくさいなぁって感情が生まれることは仕方ないので許容するけども、実際に作業を放棄することまでを認めるわけじゃないという。めんどくさくてもやる。